★曹操に牙を剥き、数奇な運命を辿る★

 正史には、馬超が軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、 楊秋・李堪・成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきたとあります。
 『典略』ではこれを建安十六(211)年のこととしており、 連合した関中の諸将を、正史で挙げた楊秋・李堪・成宜の他に 候選・程銀・張横・梁興・馬玩を合わせて十部隊としています。
 さらに正史では、曹公(曹操)はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。 <中略>曹公は賈[言羽](かく)の策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、 たがいに猜疑しあうようになり、軍はそのために大敗したとあります。
 『魏書』武帝(曹操)紀で曹操が発した 「軍勢は多いが、互いに頭を下げることをせず、軍にふさわしい大将がいない。」 という台詞は、連合軍が統率されていないことを象徴しています。

→続く


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 ★光武帝の武将・馬援の末裔★
 ★父・馬騰が入朝し、その軍勢を引き継ぐ★
 ★曹操に牙を剥き、数奇な運命を辿る★
 ★冀城を失い、張魯を頼る★
 ★劉備に降り、入蜀にその役割を果たす★
 ★死に臨んで従弟・馬岱を案じる★