★父・馬騰が入朝し、その軍勢を引き継ぐ★
『典略』によれば、むかし(208年)、曹操が丞相になったとき、
馬騰の長子・馬超を(都に)招いたが、(馬超は)応じなかったそうです。
曹操は南征の前に、馬超を体よく人質にして西方の脅威を削ごうとしたのでしょう。
正史には、この後に馬騰は(関中に赴任していた鍾ヨウのもとに)馬超を
派遣し、平陽における、鍾ヨウの郭援・高幹討伐に従軍させた。馬超の部将の
[广龍]徳(ほうとく)が自ら郭援の首を切ったとあり、『典略』にも
この戦についての記述があります。
それによれば、 (馬超は)飛来した矢に当たってしまったが、
そこでその足を嚢(ふくろ)に包んで戦ったといい、その後については
(馬超は)詔勅によって徐州刺史、のちに諫議大夫に任命されたそうです。
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