初恋
 
馬雲は、縁を頼って遠く冀州まで辿り着いたが、 そもそものことが腑に落ちなかった。
ともにやってきた母が、父に愛想を尽かして自分を連れて家を 出たと言っていることに納得いかない。
誰よりも父を理解していると思っていた母が、ある日突然 突き放したように思えたからだ。
だから、本当にそうなのかと訊いても、
「優しかったあの人が戦を始めたから、愛想が尽きました。」
の一点張りで埒が明かない。
そのくせ、頼るべき縁が父の縁だというから、ますます腑に落ちない。

その上、その縁というのが冀州に父の知り合いがいるということでなく、 先祖の同族がいるということである。
父の馬騰は伏波将軍・馬援を先祖に持ち、その馬援が 戦国時代の趙奢(ちょうしゃ)につながるというのだ。
趙奢が馬服君といわれたので、その子孫が馬姓を名乗ったのが 馬氏の始まりという。
「真定の趙氏ねぇ……そんな縁があてになるのかしらねぇ?」
十年二十年前の話ではないのだ。
「何言っているの、雲。それしかあてがないのよ。」
「…わかってるわよ。」
馬雲は諸々の感情が重なって、ますます不貞腐れた。





馬に揺られて行くも、真定の趙氏に辿り着くどころか ますます遠ざかっているのではないか。
誰がどう見ても山奥を突き進んでいるとしか思えないのである。
「真定の趙氏は樵(きこり)でもしているのかしら?」
と、馬雲は皮肉を浴びせた。
「雲……。」
これには母もさすがに嫌な顔をした。
山奥を突き進んでいる事ばかりでなく、夫から逃げたことを あてこすられているからである。
馬騰は馬援の後裔でありながらも、彼が生まれたころには 既に馬家は没落しており、彼自身も若いころは樵で生計を立てていた。
馬雲はそれを言外に含めたのだ。
「いかに趙氏を頼るとはいえ、あなたを 彼らの目に触れさせるわけにはいかないの。」
「どうして?」
「私は漢族でも、あなたは羌族の血を引いているからよ。」
「それが、どうしたっていうの?」
西涼では漢族と羌族が雑居している光景がよくみられる。
なればこそ、祖父は羌族の娘を娶って父が生まれたわけであるし、 馬雲に してみれば、自分が羌族の血を引いていることは何か特別なことなのか、 さっぱり分からなかった。
「ここは隴西(ろうせい)とは事情が違うのよ。 あなたが純血の漢族でないと知れたら、どんな目に遭うのかわからないわ。」
「でも、見た目にはわからないでしょ?」
母は屁理屈をこねる馬雲に閉口した。
「それだけじゃないわ。」
「…というと?」
「あなたはいずれ故郷に帰って、西涼の者を婿にするんだから、 趙家の男に色目を使われては困るのよ。」
馬雲は、仮にその時が来たら 母はどうするのだろうと思った。
「それで、あなたがここで人目につかずに暮らせるよう、 住む場所を探しているのよ。」
山奥を突き進むわけは理解できたが、そんな都合のいい小屋などあるのだろうか。


「雲、あれ……。」
母が指さしたところに、なんと都合のいい小屋があったのだ。
ところが、すぐに怪訝そうな表情をして、
「…人が住んでいるのかしら?」
と言った。一本の木に、品の良い白馬が繋がれていたのである。
「でも、住んでいたら木になんか繋がないわよ?」
「それもそうね…。家探しかしら。」
母は小屋にいるらしい人物は、山賊の類だと思っているらしい。
だが、馬雲はあの上品な馬の主人が 山賊の類にはどうしても思われなかった。
「中を探ってみる。」
「雲!やめなさい。」
「平気よ。相手は一人だし。」
こう見えても腕には自身がある、雲はそう思っている。
事実、大の男を片手で持ち上げてしまうほどの腕力を持ち合わせている。
馬雲は母の制止を黙殺して、 馬を下りて足早に小屋へ入ってしまう。
仕方がないので、母も馬を下りて木に二頭の馬を繋いで、 娘のあとを追った。





馬雲がそっと扉を押し開くと、 大柄な男が物置棚の前にしゃがんで、何やら探っているではないか。
「そこで何してる!」
「わっ!」
馬雲が大声をあげると、男は驚いて振り向いたものの、
「…うっ!」
その拍子に棚に頭をぶつけて、気を失ってしまった。


馬雲は男を担いで辺りを物色した。
男をこのままにしておくわけにもいかないので、 寝台を探して、そこへ横にさせようと考えたのである。
寝室と思しき部屋を見つけると、彼を横たえて顔を窺った。
「………。」
年の頃はおおよそ二十歳と思われるが、身の丈が大柄なこともあろう、 十四歳の馬雲にとっては、 彼はまさに大人の男であった。
逞しい手足をしていながら、端正な目鼻立ちとの均整がとれている。
まさしく美丈夫という呼称が相応しいといえた。
馬雲が男の寝顔に見惚れて少し顔を近づけると、
「………………。」

いい匂いが、した。

もっと、近く    

そう念じたところで、
「雲!何をしているの!」
馬雲は母親に咎められて跳びあがるように 体を起こし、恐る恐る顧みた。
案の定、呆れた目で娘を見ている。
「いや…、その。」
馬雲が必死に言い訳を探していると、
「う……ん?」
男が小さく唸って、起き上がる。
「あ…あれっ?」
男はいつの間にか自分が寝台に上げられていることに微かに驚く。
そして、さして驚いた様子でもなく馬雲を見て、
「これは…あなたが?」
「そうだけど?」
「ありがとう…って、え………?」
女一人に運ばれた状況を漸く理解したようだった。
そこで、何を思ったのか少し血の気の引いた顔になる。

「あ、あの…。まさか、あなた方は虎の精とかじゃ…ないです、よね?」

何を言い出すのかと思えば。
物語の類ではあるまいし、人間に化けているなどということがあり得るものか。
それとも、女一人で大の男を運んだものだから、勘違いされてしまったのだろうか。
馬雲は即座に否定しようとしたら、
「…だとしたら?」
なんと母が彼に便乗してしまったのだ。
すると彼は後ずさりをしながら、
「その…話せば分かります。ここにあなた方が住んでいるとはつゆ知らず…。」
「早くここを去れば、食べたりは致しません。」
「……は、はい!」
「それと、二度とここへは参らぬと約束をしますね?もし破れば…。」
「承知しました…!では、失礼…。」
男は慌てて寝台を下りて、軽く一礼してから、足早に去って行った。


母は男が去ったのを確認すると、
「…これで一安心ね。」
と安堵の溜息をつくが、馬雲は甚だ面白くない。
あからさまに不貞腐れた態度をとる馬雲に、母は苦言を呈した。
「年頃の娘が、あのようなところで男と二人きりになるなんて、 あなた不用意すぎるわ。」
「彼は気を失っていたじゃない。それに…。」
「それに?」
「…べつに。なんでもないわ。」
彼になら…とは、馬雲もさすがに母にも言えなかった。
「そう。それより、彼が妙な勘違いをしてくれて助かったわ。」
勘違いとは、この母子を虎の精が人に化けているものだと勘違いしたことを、である。
「それから、この山に人食い虎が出るって噂になってくれれば、いいんだけど…。」
そのようにして、娘が誰の目にも触れることがなければ、 母としては願ったり叶ったりである。

だが、馬雲の気持ちは      

彼に二度と会うことがないとしたら。それは考えたくないことであった。

「そういうわけだから、あなたは今日からここで暮らすのよ。」
「あなたは、ってお母さんはどうするの。」
「私は趙氏を頼るわ。」
母の嫣然微笑に、馬雲は何故とも知れぬ不安に駆られた。
母は自分を食べさせるためなら、どんなことでもしてしまうのではなかろうか。
趙氏を頼り、妾や奴婢になるつもりなのか、 あるいは、初めから趙氏を頼ることなど考えておらず、 体を売って稼ぐつもりでいるのかもしれない。
「やめてよ!お父さんを裏切るようなことは、絶対に!」
「………………。」
母の沈黙は、馬雲の懸念が外れていないことの証であった。
「お母さんがそのつもりなら、私にだって考えがあるわ!」
「まさか、あの男に会いに行くつもり?」
「そうよ!お父さんを裏切るなら、お母さんの言うことなんて聞かない!」
「雲、あなたやはり……。」
だが、皆まで言わなかった。
娘の気持ちに気付いていながら、やはり言葉にはしたくないのである。
こうなれば、母はもはや自分が折れるしかないと思った。
「…わかったわ。私にとっては他人でも、あなたにとっては父親なのよね。」
そうして、暫くは西の珍品を売って生活することになるのだが、 馬雲はそれは父が母に持たせたものではないかと思った。
母が父のもとを去ったのは、やはり愛想を尽かしたからでないと考えていたが、 このことで、何か深い事情があってのことだと確信させられたのだ。
その深い事情というのが、今はまだ分からないのだが……。

「雲、出かけるわね。」
「私も行く。」
すると、母は嘆息して、
「生活に必要なものは、私が調達するわ。 あなたは何があってもここを出ないこと。いいわね?」
「でも…。」
「あなたが心配するようなことはしないわ。」
「わかったわ……。じゃあ、気をつけてね。」

母は出かけるが、数十歩進んだところで振り返り、
「馬を乗り回し、棒を振り回すことしか 興味のなかった雲が、男の人をねぇ…。」
がさつな娘に女らしさが芽生えたのが嬉しくもあるが、 羌族の血を引く彼女の仕合せを考えると、やはり複雑な心境にならざるをえない。


一方、馬雲は、母が出かけると やはり気になるのが、ここで出会った男のことだった。
「そういえば、彼はこの辺りを探っていたわね…。」
物置棚と壁の隙間に手を入れて探った。
「何かしら?」
馬雲は、手にぶつかった物を取り出すと、 書物があらわれる。
しかも、貴重な存在である紙を束ねて綴じられていた。
このような珍しいものを持っているとは、彼は 名家の子息なのだろうか。
馬雲も、馬氏の出であるから文字が読める。
さっと全体に目を通したが、跋文(ばつぶん)に目を奪われた。
そこには、こうあった。

『わが子、雲にこれを託す。
良心のある後世の人々の目に留まるよう、これを守ってほしい。』

そして、この書物の筆者と思しき者の名があった。
「趙…………。」
とすれば、これの持ち主は筆者の子であろう。
即ち彼の名は、
「趙……雲。」
馬雲はそう呟いて、北叟笑む。
そして確信した。趙雲はこれを隠しにきたのだと。
ここに人が住んでいるからには、きっと取り戻しに来るだろうと。
母との約束を破ってまで。
それが馬雲にとっては、たまらなく嬉しかった。

(続く……)